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关于《平家物语》之“无常观”

996论文网日期:2021-01-19 15:35:32点击:492

摘要

《平家物语》成文于日本镰仓时代,描写了平氏一家由荣华走向没落的历史。书中以保元﹑平治之乱中获胜的平家和战败的源家之间的对比,以及源平两家争战后对平家的追讨过程为中心,生动地再现了当时处在社会变革中逐渐没落的平安贵族与开始登上历史舞台的武士阶级的社会状况。本研究,基于多次通读这部优秀的战记物语,在深刻理解作品描绘的日本中世宗教状况以及人们的宗教理念的基础上,对 “无常”的观念如何贯穿作品始终,为何能够在人们心中打下深深的烙印等诸多问题进行了探讨。

关键词:平家物语;佛教;神道;无常

要旨

『平家物語』は鎌倉時代に成立した、平家一族の栄華と没落を描いた歴史物語である。保元の乱?平治の乱に勝利後の平家と敗れた源家の対照、源平の戦いから平家の滅亡を追ううちに、没落し始めた平安貴族たちと新たに台頭した武士たちの織りなす人間模様を見事にかきだしている。本研究では、この最高の軍記物語と呼ばれる物語に基づき、中に描かれた日本中世における宗教の状況やそれに対する人々の観念を解読したうえ、なぜ「無常」という感じがいつも現れ、また人々の心に生じたのかという問題を辿り、検討してみたいのである。

キーワード:平家物語;仏教;神道;無常

目次
第1章 序論
第2章 『平家物語』について
2.1 物語の成立
2.2 物語の粗筋
2.3 物語における仏教思想
第3章 仏教の日本化
3.1 神に恵まれた国
3.2 藩神到来
3.3 奈良時代の仏教
第4章 所謂「無常観」
4.1 無常観の起源
4.2 『平家物語』における無常観
結論
謝辞
参考文献

第1章 序論

紀元3世紀ぐらいには、すでに日本列島と中国大陸の交流があった。大国文化に対する憧れを抱えて、中国への留学生が派遣された。遣隋使、遣唐使など、時代によってさまざまな呼び名があるけれども、彼らの背負った使命や志が変わることはなかった。律法、制度の導入につれ、東南アジアに盛んでいた仏教がますます注目された。仏教の伝入がもっと前のことであったが、最初はただ貴族たちだけの信仰となっていた。最澄、空海などの留学僧のおかげで、仏教が咲き誇る花のようにだんだん日本各地に、上から下まで広がっていく。しかし、たとえ仏教の世と呼ばれる平安時代派も、いよいよその時代を迎えようとした。時は紀元12世紀半ば、平家一族の盛衰史を生き生きと描いた『平家物語』における時代である。
様々な人物を刻んだこの物語が、壮大なる戦争の場面を見せてくれる。『平家物語』のシンボルとして、無常観がよく知られている。本論文はその「無常」の解読を検討しようと思って、三つの部分になっている。第2章において、まずは物語の紹介や粗筋などを見てみた。第3章において、前回に提出した問題に応じ日本化した仏教について説明した。第4章において、「無常観」の源について探究してみて、また『平家物語』における様々な人物の例を分析した。以上の研究を通して、『平家物語』とその中に溢れる無常観に対する認識を、もっと深めることができよう。第2章 『平家物語』について

2.1 物語の成立

平清盛を中心とする平家一門の興亡を描いた歴史物語で、「平家の物語」として「平家物語」とよばれたが、古くは「治承物語」の名で知られ、3巻ないし6巻ほどの規模であったと推測されている。それがしだいに増補されて、13世紀中ごろに現存の12巻の形に整えられたものと思われる。作者については、多くの書物にさまざまな伝えがあげられているが、兼好法師 の『徒然草』によると、13世紀の初頭の後鳥羽院 のころに、延暦寺の座主慈鎮和尚のもとに扶持されていた学才ある遁世者の信濃前司行長と、東国出身で芸能に堪能な盲人生仏なる者が協力しあってつくったとしている。後鳥羽院のころといえば、平家一門が壇の浦で滅亡した1185年から数十年のちということになるが、そのころにはこの書の原型がほぼ形づくられていたとみることができる。

この『徒然草』の記事は、たとえば山門のことや九郎義経のことを詳しく記している半面、蒲冠者範頼のことは情報に乏しくほとんど触れていないとしているところなど、現存する『平家物語』の内容と符合するところがあり、生仏という盲目の芸能者を介しての語りとの結び付きなど、この書の成り立ちについて示唆するところがすこぶる多い。ことに注目されるのは、仏教界の中心人物である慈円のもとで、公家出身の行長と東国の武士社会とのかかわりの深い生仏が提携して事にあたったとしていることで、そこに他の古典作品とは異なる本書の成り立ちの複雑さと多様さが示されているといってよい。

2.2 物語の粗筋

平安末期の日本が、まさに大きな変革や騒乱に囲まれていた。仏に仕えるため出家したがまだ政を握っている法皇と、父親に逆らうことのできない天皇、優雅に暮らしていた貴族と政権を把握し始める武家、また兵を所有する各地の領主と領地の争いで離散になった庶民たち。さまざまな原因でこのような乱世を築いたのである。『平家物語』は、平忠盛の始めて昇殿を許された天昇元年から、建礼門院お往生の建久二年まで、約六十年にわたる平家の盛衰をその内容としたもので、史実のみによらず、想像のみによらず、史実と想像とを交わして、史書と物語との中間をいったものである 。

この物語の主人公の平清盛は、その時代のおかげで出世した。安芸守からわずか十数年に、保元の乱や平治の乱を抑える手柄でついに太政大臣までにつき、そのため一族も極の栄誉を手に入れた。公卿に担当する者が十六人、殿上人が三十人余り、日本全土六十六国の中で平家の所有する領地が三十か所くらいでもあった。まさに真っ盛りといえるであろう。

一方、特権を代々受け継ぐ貴族制度が崩れつづあり、私有荘園と武装を持つ地方領主が舞台に上がってきた。『平家物語』いおける人物中、最も多いのはさすがにこれらの武人である。出征途中、竹生島に管弦する、呑気な経正が、よく書かれ散るのは風雅のためで、戦乱の間に、能登殿が大いにもてるのは、勇武のためである。この両者を重ねたものは、まさに時代の寵児で、瀬政や忠盛が特に光って見えるのはそのためである 。一方、武家を代表する平家一族がその時代に活躍できるのも、各地の大名が支えてあげるために違いない。しかし、政権を握った平家は自らの階級の利益に逆らい、貴族のような生活を極めた。また京で二三百余りの少年を選って、かぶろのように髪を切り、一旦平家の御事悪しざまに申す者があれば、すぐに家に乱入し、私財雑具を追捕し、その人を六波羅殿へ捕まえ、このように天下を好きに扱うにした。後に源氏に負けたのも、誠に「盛者必衰」という言葉に当たったのであろう。

『平家物語』はこの両大武家の政権争いを巡り、様々な人物像や社会万象を生き生きと刻み、その同時に中国の歴史典故や詩歌などもよく出てくる。儒教の道徳観や仏教の宿命論が全書に貫き、平安時期武士階級の精神状況も見事に描写した。しかし常に我々の目に立ち頭に浮かべることは、やはりあの時代の仏教の実態であろう。太政大臣平清盛にしても下級武士たちにしても、彼らは自分の運命をすべて仏に預けるような気が強く感じられる。一の谷の戦いで敗退し、死ぬ前にも西に向かい「光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨」と十念する薩摩守忠度や、焔に燃えられるように死去した入道相国。これらの描写は、仏教に対する信仰がいかに強かったのを表す他ならないのである。

2.3 物語における仏教思想

さまざまな変革に迫られていた平安朝の日本は、大陸文化を積極的に吸収する一方、仏教も盛り人々の心に根強く留った。鑑真の東渡、唐招提寺の建設でますます興隆になりつつあった。中世の日本人は仏のことに莫大な関心を持ち、生活の面々にも影響された。平氏の創始者の平忠盛は、鳥羽上皇のため得長寿寺を建てから登殿ができ、一族繁栄の土台を築いたのである。各大寺の座主は必ず親王とか地位の高い公卿とかで担当され、仏教の重要さが言うまでもないことである。

貴族にも関わらず、庶民たちの敬う心も明らかに表わされていた。歌女の妓王は入道殿に捨て去られた後、世間に絶望し、ついに出家した。一時に栄華になった佛でも、「いづれか秋にあわで果っべき」という嘆きさえ出て、出家になったのである。現世が不順ならば、来世を求めた方が良い。妓王たちが出家し極楽を求めた果ては、後に後白河法皇 の長講堂の過去帳にも妓王、妓女、刀自、佛などが尊霊と記録されていた。彼らの宿願が叶えたとしても、かなり憐れむことであろう。このように仏法興隆から二三百年の間に、仏教がだんだん本土化また日本化になり、自ら独特の精神教義が出てきたのである。しかし、時は仏法衰微の時期になった。武士豪族の争いで戦争を招き、天下が不安になり続いた。源氏を潰し都から追い払ってから、平氏はまつり事を独断していた。失意した貴族や武士は相次ぎに出家し、来世の福祉を祈ることが多かった。動揺した態勢が人間を恐慌させ、?諸行無常?の観念もいつの間に人々の心から生じ蔓延り、仏教はこのように俗世間を離れる最もいい口実となった。

「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を顕す。驕れるものの久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂には滅びぬ。ひとえに風の前の塵に同じ」。この哀唱をはじめとして、平家十二巻を貫くものは、無常観であり無常の哀感である。いわゆる「無常」、つもり変化の意を表し、世間の物がいつも無限の変化にあったという仏教の基本的認識である。「無常」の生まれは、日本列島独特の自然環境にも深くかかわったと思う。地震、火山、津波、日本民族は昔からこのような災害で生きていた。人間の死去、建物の壊滅、これらの全ては人の精神状況に影響し、存在することがいかに実在的でなく、幻の感覚までも出てきたのでしょう。しかし、広く伝わる仏教こそ、その無常の現れの重要な要素だと思う。なぜ大陸から伝来した仏教が日本国でこんな差異が出たのか。またその異化された仏教に対する認識は、「無常」を形成してきたのでしょか。その両者の間に、きっと何かのかかわりがあるのである。ならば、宗教の面から、その「無常」の起源を辿りしよう。第3章 仏教の日本化

3.1 神に恵まれた国

長く狭くて、また海に包まれる土地、それが日本列島である。島国として、自然環境がきびしいどころか、時々地震や火山や津波の災害も起こり、結構大変であった。こんな状況で生きてきた日本民族は、言うまでもなく大自然に尊敬かつ怯える感じが生じられなくてはいられなかった。農業生産の豊作や一族の繁栄安全など、これらの不安定な要素をすべて「あるもの」の意志とされば、やがて「神」という言葉が出てきたのである。祖先の崇拝や形のない霊を祭る中で、自然の大いなる力に恵まれているという気持ちも抱えられてきた。『古事記』の編纂により、始めて文の形で日本国と日本人の由来の伝説などを述べ、神の子孫としての誇りが明らかである。

祖先や自然神を尊崇しながら形成したものは、民族宗教であった。それは他の民族の宗教と同じく、最初は単に村全体の繁栄や安全のため祈った行事であった。村人は神社を作り、そこで祭りを行うことにした。古墳時代後期になると、農業生産の進みにより社会の変化が大きかった。家族、氏族などが生まれ、それに対して相応の氏族神も誕生したのである。にもかかわらず、信仰される神が変わっても、その祈りの本質は変わらなかった。こういう時期の民族信仰は、まだ個人的な「福を招き、禍を消す」という念願を実現するために存在していて、教義や理念などは全くなかった。無知な人々は厳しい生存状況で生きられるため、常に神に恵まれるというような感じが生じた方が、心の安らかさができるでしょう。これは最初の「神道」というものである。やがて日本社会の発展に伴い、国家の形で政を処理するには、もっと優れた制度が望ましかった。海の向こう、大陸の中国から国政を学ぶ同時に接触した新たな宗教――仏教も日本の舞台に上げたのである。

3.2 藩神到来

紀元522年百済明王は使節を派遣、日本に仏像を献じた。よって、仏教が朝鮮半島から正式的日本へと伝わってきた。『日本書紀』によると、その献上した仏像を祭るかどうかについて、当時の欽明天皇 の大臣たちは激しい論争に陥った。崇仏派の蘇我氏は「諸外国が尊敬する以上、わが日本国も例外なしに崇めるべし」と述べたけれども、一方排仏派の物部氏は「我が国が天照大御神に守られているながら、また蕃神などを崇拝することは、カミの怒りを招く恐れがある」と強く反発したのである。両大派閥の対立は五十年あまりという、長い時間に続いた。仏教の初登場が激しい反対の声に遭遇したのは、上記の言うとおり本来民族宗教がすでに存在しているほか、当時の政治体制にも深くかかわっていた。朝廷を左右した力は、豪族保守派を代表する物部氏や、新興貴族を代表する蘇我氏であった。前からも帰化人や大陸文化に接触し先進文化に影響された蘇我氏は、仏教を引き入れる機会で、物部氏との闘争に劣勢に処する一族の権力を固めようとした。しかし、天皇伝統権威や民族宗教を支柱とした物部氏は、?外来神?の仏の伝来に対しては必ず反対の声を響かせるしかなかった。それにもかかわらず、歴史の進むプロセスはいつも止まることがないのである。どんどん政を独断してきた物部氏に、やがて皇室からの不満が出てきた。聖徳太子と手を組んだ蘇我氏は物部氏を潰してから、新たな宗教――仏教がようやく日本全土に伝わることができた。

3.3 奈良時代の仏教

すでに天下へと仏教が広げられ、ならば万民に信仰させ、国の安泰のため仏法を発展向上させるべきである。しかし、事実はそうではなった。国家を守護し天皇制を固められると宣伝された仏教が、最初からも政治宗教となった。朝廷に守られ、お寺などがよく町の周辺で建てられる故「都会仏教」とも呼ばれた。興隆期となった奈良時代の日本仏教は、インドと中国での伝統仏教と違い、基本的な戒律さえも離れ、僧侶は民間へ伝教するようなことをせず、単なる貴族たちに仕えるだけである。ついに国の政に手を出すこともあり、朝廷を左右する勢力となってきた。こういう時期の仏教は新たな事物として政権争いに利用され、これも後に仏教の日本化の兆候となったわけである。しかし、寵愛を一身にしても、所詮外来宗教や政治道具である。律令国家の確立に伴い、天皇の力がますます高き、蘇我氏一族を始末してからやがて君臨するようになった。伝統権威を代表する神道も言うまでもなく新たな高位に置かれた。大化の革新に制定した「大宝律令」によると、神の祭りなどを主管する官吏は天皇から直々の任命、太政大臣同級の者であるが、仏教諸事を処理する機構はただただ治部省所轄の玄蕃寮であった。神高仏低の状態における仏教がよい発展と権力の拡大を求めるには、やむを得ず神道にしたがうことにした。その表現の一つが神社で経文の朗読を許し、いわゆる「神前念仏」である。

初期仏教がつよい政治性を持っているのを除き、民間へ広がることのできないもう一つの原因は、人々固有の観念そのものである。宗教というと、それが現世のことを第一に、生活の安定さや幸せさを祈るはずだと思われた。ですから仏教の来世主義、死後の世界に憧れる考えが一時に納得されるわけはなかった。一方、元来ただ神社に参ることで宿願をかなえることが可能であるが、もし仏を信じるならば、山ほどの戒律や決まりを守らなければならないという恐れもあり、あまりにも実用ではなかった。これはさまざま不確定な要素に囲まれ、尊崇や冷遇の立場にあった前途不明の奈良時代仏教である。

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